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About us

朝聞書会とは

「朝聞會」は松井如流により昭和3年に命名、設立された。

会名は「論語」の里仁篇の「子日く、朝に道を聞かば、夕に死すとも可なり」とあるに依る。

 

昭和18年に第1回朝聞書會展を開催し、昭和29年から昭和31年は東京都美術館で開催した。

昭和32年に東方書道院が再興するに至り、東京都美術館の会場を朝聞書曾展から東方書道展へ譲り渡した。そのため朝聞書會は一時休会となり、松井門下生たちは東方書道展に参加した。だが、東方書道展は大作主義を標榜したことなどから、門下生らの要望に応じ、松井如流は「時代に即応した力強き新風を書道会に送りたい」との念願のもと、朝聞書會が長年堅持してきたところの「清新なる書風確立」の精神をさらに発展せしめると宣言し、東京書道会を新たに発足させた。

 

また、朝聞書曹は9年間の空白を経て、昭和40年に再開した。長らく東京書道会展と朝聞書會展の両展は並走する形で開催されていたが、平成25年に朝聞書會と東京書道会を統合し、

新たに「朝聞書会」と改称した。

平成26年1月に第61回朝聞書展を開催した。伝統を根底にして現代性を意識した書を目指している。

朝聞展に際して

松井如流

朝聞書会という名は、僕が三十頃の時、通信教授をやる為に、命名したもので、あまりいい名とは思っていない。しかし、他の名に変えるのも億劫なので、そのままにしてしまった。

吉田先生没後、僕の社中展を銀座で開いた時にもこの名を以ってし、爾来、踏襲しつづけているわけである。時に朝聞展というと、朝日新聞の略称の如くに思う人もあるらしく、当惑することもないわけで はない。その読み方も「ちょうぶん」を正しいとするのであるが、「ちょうもん」と呼ぶ人もある。これは恰も僕の号は「じょりゅう」と読んで貰いたいのを、人によっては「にょりゅう」と読まれたりするのと同じであって、漢音と呉音とをごっちゃにする日本人の習慣があるから仕方がないとあきらめている。(『書法』 昭和29年5月号より抄出)

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Our stride

朝聞書会のあゆみ

1943年 9月

第1回朝聞書會展 銀座画廊

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1954年 7月

第13回朝聞會展 東京都美術館

1959年

東京書道会創立

1973年 3月

第22回朝聞書展 上野の森美術館

2014年 1月

第61回朝聞書展 (東京書道会展改称)

東京都美術館

2023年 1月

1928年 4月

『朝聞會』創立、松井如流の通信教授の教場として命名。孔子『論語』里仁篇の「朝聞道、夕死可矣」よる。

1953年 4月

第12回朝聞書會展 同人制から公募展になる。

1957年

東京都美術館の会場を東方書道院に譲渡

1965年 3月

第14回朝聞會展 池袋西武百貨店

2013年 2月

第60回記念朝聞書展 特別企画「松井如流と四人の弟子」この回をもって、同人展を終え、東京書道会とひとつになり、新たな朝聞書展として出発。

2018年 1月

第65回記念朝聞書展 特別展示「松井如流と四人の高弟」

第70回記念朝聞書展 特別展示「松井如流蒐集の拓本展」

東京書道会設立趣意書

会名改称に当たって

理事長 林 竹聲

東京書道会は、松井如流先生が、昭和三十四年新しい理念の下に創設され、その後多くの書家を輩出してきたが、今回会場等の事情もあって閉会。朝聞書会と改称する事となった。

朝聞書会という名称は松井先生が通信教育を始められた昭和三年頃から使っていたという記録がある。皆さんも御承知のように「朝聞」という文言は、「論語」の里仁篇に「子日く、朝に道を聞かば、夕に死すとも可なり。」とあるに依る。

第一回展は昭和十八年銀座画廊で開催。その後、所沢等へ会場を移し、 同人制は続いた。第十回展に当たる昭和二十八年会場は東京下谷公会堂に移り従来の同人制から公募制に変わった。翌十一回展から会場は東京都美術館で三回開催したが東展が設立されたので会場を譲渡し、以後朝聞展は休会となった。九年間の空自を経て、朝聞展が復活したのは、池袋の西武百貨店に於いてであり再び同人制に戻った。第二十二回展の昭和四十八年からは 上野の森美術館に定着したが、平成二十五年六十回展を以て同館での開催に終止符をうったのである。

改革の事情は種々あるが、東京都美術館がリニューアルし、展示面積が約二倍に増えた事等が主な理由である。

今、世の移り変わりには著しいものがある。自然の猛威も又それを倍加させる。書のみは安穏とはいかない。伝統を根底にして現代性を意識した書を目指したい。今回の改革を好機として、朝聞書会は大きく踏み出していく所存である。

(2017年01月19日)

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